お聞きしたいのは、農民は火縄銃を持・・・に関する記事
質問
お聞きしたいのは、農民は火縄銃を持っていたのか? 猟師はいつでも発砲できたの? ということです。江戸時代の小説を書いています。侍とエイリアンの戦いに、火縄銃を登場させたいのですが、江戸時代の銃規制はどうなっていのでしょうか? 調べた範囲では、農民が害獣を撃ち殺すときは、藩庁に届け出て、借りていたということです。が、こちらのサイトには、 http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=449015&log=200509 江戸時代中期まで庶民も脇差を腰に歩いていたし、自宅に刀槍を置いとくことに規制はなかった。火縄銃にいたっては、多数の猟銃が農村に存在していた。明治新政府の廃刀令も、武士身分の廃止という身分政策の問題で、民間の武器には手がつけられなかったのである。 とあります。確か、猟師も許可をとっていたとおもうのですが。詳しい方おられましたら、いろいろ教えてください。よろしくお願いします(^o^)
回答
あなたが引用されているサイトに書かれている、藤木久志氏の『刀狩り』(岩波新書)に詳述されています。手許にその本がありますので、かいつまんで引用してみます。 江戸幕府成立から数十年間は、幕府や各大名による鉄砲所持規制が行なわれた形跡はない。例えば松本藩では、1687年の調査で、藩内の鉄砲は1000挺を超えていました。武士が用意すべき鉄砲が200挺とされていましたから、その5倍強です。 1662年、幕府は鉄砲取締りに着手します(ただし、関東だけです)。その内容は、猟師の鉄砲を登録免許制にし、それ以外は所持を禁止して没収するというものでした。猟師の鉄砲には木札の許可証が公布されました。 1676年には、その免許登録を幕府が直接管理することになります。ただし、山間部では、猪や猿など、作物を荒らす害鳥獣には鉄砲を撃つことが認められていました。 1687年には、この規制が全国に及びます。猟師鉄砲(実弾・狩猟)、威し鉄砲(空砲・害鳥獣)、用心鉄砲(実弾・治安)の他は、村々の鉄砲はすべて没収すると定められました。5代将軍綱吉の「生類憐みの令」と連動していたと考えられています。しかし、空砲では効果がないことから、2年後には害鳥獣に対しても実弾が許可されます。 1709年、綱吉の死でこの法令は撤回され、害鳥獣への実弾発砲は自由になります。基本的に、鉄砲が戦闘用の武器というよりも、農具の一つと認識されるようになったからとも考えられています。 1729年の法令で、許可さえあれば、害鳥獣対策でなら鉄砲は必要なだけ撃ってよく、村の鉄砲の数量制限も撤廃されます。 ただ、野放しと言うわけではなく、鉄砲は領主が村人に預けているもので、鳥獣以外の殺生には使用させない、という原則は生き続けていたそうです。 1800年代に入って治安が悪化し始めると、1839年には、猟師以外の鉄砲の所持禁止令が再び出されます。この時、没収された鉄砲は、一村あたり平均3.5挺だそうです。ただこれらも、村の生活に必須であれば、という条件で、村の鉄砲として認可され返還されています。 鉄砲はあくまでも、狩猟用、害鳥獣対策の農具と位置づけられるようになっていました。鉄砲は武器として使用しないと言う暗黙の原則が生まれていました。だから、百姓一揆でも鉄砲は使用されません。一揆側が鉄砲を使用しない限りは、大名側が鉄砲を使用することは認めない、というのが幕府の基本姿勢でした。この原則が揺らぐのは、幕末に近い1800年代の始め頃からのようです。
出典:Yahoo!知恵袋
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